楠々が野沢尚作品にこだわる理由
いつからだったか、何の作品を知ってからだったか忘れたけれど、私が野沢尚の作品を集めたいと急に思い立ったきっかけが何かあったはずだ。そして調べるようになってから、
「あれ?この作品も野沢尚?えっこれも?このドラマ、見たことあるな。面白かったよな。」
という感じで、どうやらドラマや小説に対して元々それほど興味が無かった私の感性は野沢氏の感性に響きやすくできているようである。
野沢氏の作品といえば恋愛モノからサスペンス、青春モノまで幅広いが、共通して楽しむポイントがある。
そこが私の中にあるものと近いせいか、私はすんなりと野沢尚ワールドに入り込んでしまう。
野沢氏の作品はどれも、
「人間とは何か」
「愛とは何か」
「自分とは何か」
と常に人間、すなわち自分自身の美しい部分や醜い部分…要するに人間らしい部分を探し、向き合い、葛藤し続けているように思う。
人間が自分自身のそういった部分と常に向き合い、受け入れ、総括していくことがどれほど難しく苦しい作業であるかというのは私もよく知っている。
けれど、それをやめることはできないのである。
常に発見されていく自分自身の細部。
そして、「それは何故か」と理由を探る。
「破線のマリス」の瑤子が行った自己検証は、正に野沢氏が日々繰り返し行っている作業ではないか。
「恋人よ」の愛永も。
野沢氏の作品はどれも、
「人間って何と愚かで卑しく醜い生き物なのだろう。しかし、何と人間らしく美しいのだろう。」
と訴えているような気がする。
そして、作品の全てに共通している、激しくも柔らかい空気が私は好きである。
見える部分と、その真裏にある見えない部分は正反対にあるもののようで常にイコールで結ばれているのだと感じ、自分自身や目の前にいる者について考えずにはいられないのである。
都度、作品では専門知識が要るようなテーマに臨んでいるが、結局のところ氏が強調したい部分は専門分野についてではなく、その表裏にある人間らしさについてではなかったのか。
殺し屋シュウでは“銃器”について
リミットでは“臓器密売ルート”について
破線のマリスでは“テレビなどのメディア”について
砦なき者では“インターネットなどのメディア”について
などなど、おそらく専門分野に長けている方から見れば鼻で笑ってしまいたくなるような部分も多いかもしれないが、私はその辺はまるで気にしていない。
何故ならば、野沢尚の作品の見所はそこではないからだ。
そこに気づけば、味付け程度でしかない専門知識がどうであろうと楽しく読めるのである。
また、一般的に野沢作品について、結末がお粗末であるという意見も多数みかける。
ドラマ版はそれほど見込んだわけでもないし、観ていた当時は野沢作品と知らずに観ていたため深く考えたり燃したことはないが、小説に関してはそう感じたことはない。
強いて言えば、すっきり解りやすく、誰もがハッピーエンドと思えるような結末は少ないように感じる。
そこが読者あるいは視聴者が不満に思うところなのだろうか?
私自身は、その先の行く末は、読者が読者なりに解釈し発展させても良い部分であると思う。
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そもそも本などの解釈の仕方や着眼点は人それぞれで良いとものなので野沢作品を嫌いだという方の意見もそれはそれでアリだと思いますが、敢えて「面白く読める方法」として長々と書かせて戴きました。
これで「やっぱり面白くない」ということでも構わないと思いますし、苦情なども受け付けられません。
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